「私の性」を生きている

 「トランスジェンダーと話してみませんか?」という会が10月、秋田市で開かれました。

 私たち一人一人がもっているセクシュアリティ(sexuality=性のあり方)。そのなかでもトランスジェンダーの人たちは、デマや偏見にもとづく差別に長く、直面してきました。この会は当事者の語りを通してトランスジェンダーの現実を知ってもらおうと、民間団体「性と人権ネットワークESTO」が2023年から開いています。

 今回の語り手は、県内で暮らすトランスジェンダー女性のAさん(40代)、トランスジェンダー男性のBさん(60代)。これまでの歩みといま社会に望むことを、それぞれの言葉で語りました。

トランスジェンダー
生まれた時に割り当てられた性別(戸籍などの性別)とは異なる性を生きる人のこと。日本の場合、赤ちゃんは生殖器の外観によって「男」「女」「不明」に分類され、戸籍に「男」か「女」で登録されます。トランスジェンダー女性は、出生時に割り当てられた性別は「男」ですが、ジェンダーアイデンティティは女性であり、女性として生きる人のこと。トランスジェンダー男性は、出生時に割り当てられた性別は「女」ですが、ジェンダーアイデンティティは男性であり、男性として生きる人のことです

不意に突きつけられる「戸籍の性」

 Aさんは 42歳の時に「性同一性障害」(※現在は「性別違和」「性別不合」といいます)の診断を受け、5年前に女性ホルモンを投与するホルモン治療を始めました。

 子どものころから性別違和に苦しみ、今ようやく「自分の性」を生きているAさん。しかし不意に「戸籍の性」を突きつけられることがあります。

Aさん
私は女性として暮らしています。ただ、健康保険証には戸籍の「男性」という性別が書かれています。

以前、重い体調不良を起こして救急車を呼んだことがありました。自分は声が低めなので、電話口で「男性の方ですね」と確認されました。救急隊の人を混乱させたくないと思って「トランスジェンダー女性ですけれども、戸籍上は男性なので、男として扱って大丈夫です」と伝えました。救急車では、隊員の人から「トランスジェンダー女性と聞いているのですが、男性の扱いで病院に連絡させてもらいます」と言われました。自分でも、当然そうなるだろうと思っていましたが、やはりその時に考えたのは、どれだけ自分がホルモン治療をして、女性として社会に溶け込んでいても、病院とか公的機関で何かしらの手続きする時は、戸籍の情報をしっかり見られるのだということです。

その時は、普段から持っている「死にたい」という希死念慮を超えて、もう自分はこのまま死んでしまった方がいいんじゃないか、というふうに思ってしまった。自分の性別の取り扱われ方に対して、ストレスというか「やっぱり自分は男なんだ」というものが、押し寄せてきて。

病院ではお薬手帳を見た医師から「何で男性なのに女性ホルモンを使っているのですか」と尋ねられました。自分がトランスジェンダーであることを伝えて、ホルモン治療をしていると話しました。行政機関や医療機関にかかわった時、どうあがいても、戸籍上の性別というものをやはり見られるのだと思いました。それがここ最近、この1年くらいですけれども、とても苦痛を感じたことでした。

この道に来なければ、私は生きていなかった

 もう一人の語り手であるBさんは今、62歳。「長女」として生まれ、2人の弟がいます。幼いころから「なぜ私は『長女』と言われ、弟たちは『長男、次男』なのだろう?」「なぜ私は『長男』ではないのだろう?」と不思議でしようがなかった、とBさんは語ります。

Bさん
幼稚園、小学校と上がるにつれて、だんだん「女子」「男子」に分けられるようになり、「あー…」と思いながら、ふわふわ、ふわふわ生きていました。「ふわふわ」というのは、雲の上を歩いているような、地に足がつかないような、何か揺れているような感じです。そういう中で、ずっとずっと生きてきた。それが多分、性別違和だったのだと思います。

  転機が訪れたのは、30代半ばでした。

Bさん
「性別が違うから、こんなに生きづらいんじゃないか」「自分は女性ではなく、男性なんだ」という声が脳みその後ろから聞こえてきました。36歳の時です。多分その時には、性別違和がマックスの状態だったと思うんです。女性として、女性ジェンダーで生きることへの違和感が。

「そうか、これまでのふわふわ感、生きづらさは、何か分からないけれど『性別の違い』なんだ」と私は自覚しました。ちゃんと脳みそが「俺は男なんだ」と叫んでくれて、「そうだよね」と返事をする自分がいて、あの瞬間、こちらの道に来られたと思っています。それがなかったら多分、いま私は生きていないだろう、とはっきり感じます。

側にはためくのはトランスジェンダーフラッグ。水色、ピンク色、白色のストライプで構成されています

自分の性を自覚して感じた「恐さ」

 自分は男性だと自覚し「人生を少しずつ変えていかなきゃ」と考えたBさん。そうして初めて求めたものは、男性用の下着でした。

Bさん
ボクサーパンツを買いました。女性用の下着には「やっぱりこれ違うよね」という思いがあったんです。ビクビクしながらボクサーパンツを買って、それを身に着けた時、やはり「こっちの道だ」というふうに、自分自身がはっきりしました。

そのあと、仲間を探したくなりました。「自分と同じような人っているの?」と思ったんです。その頃、私は青森にいたので、地元の当事者団体に参加しました。メンバーのほとんどが20代、大学生で、私は年齢が上でした。その後、秋田県の当事者団体「ESTO」に出会い、自分より上の世代の東京にいる先輩たちとも出会うことができて、「やっぱりいたのね」と。だんだん、道が開けていくようでした。

 しかし、ひたすら前向きに進んだわけではありません。「自分の性」を生き始めたBさんの胸には、恐れや不安がありました。

Bさん
自分のセクシュアリティを初めて自覚してから、もう一つ私がとった行動がありました。それは、押し入れに引っ込むことです。

「自分では世の中に通じない」「こういう性別の自覚がある自分は、きっと世の中では扱ってもらえないだろう」。そう思ったとき、私は押し入れに入りました。暗闇の中で、じっとしていました。自分でもなぜそうしたかは分からないけれど、この「明るい世界」の中では多分やっていけない、どこか暗闇に引っ込まなければという意識がありました。真っ暗なところで何か模索する時間も、必要だったんだと思います。

自分のセクシュアリティを自覚して、新しい自分として日常に戻るときは、すごく怖くて、震えていました。あの時、何が必要だったんだろうかと考えます。もし学校などで「こういう人たちもいて、多様な性があるんだ」ということを教えてくれていたら、私はあんなに苦しい思いをしなくてもよかったな、とも思うんです。

「女性ジェンダーで生きた自分」も大事にしたい

 ふわふわとした性別違和を抱えて育ち、ようやく「トランスジェンダー男性」というアイデンティティを手にしたBさん。一方で、それまで40年をともにした「女性である自分」も、簡単に捨て去ることはできませんでした。

Bさん
もうすでに何十年と女性ジェンダーで生きてきた自分自身というものも、私はなかなか捨てられなかった。「女性」という自覚ではないけれど「女性ジェンダーで生きてきた自分自身」という人間を、大事にしたいと私は思ってきました。

一方で、乳房を取りたいとも望んでいました。乳房のある自分というのは、私にとってひどく自分自身の価値を落としてしまうものだったんです。毎度毎度、二つの乳房を見ながら、これがなかったらどれだけいいかと、ずっとずっと考えてきて。ある時、Tシャツを買いました。素敵なイラストがついているTシャツで、私はあえて一つサイズを落として買いました。なぜサイズを落としたかというと、乳房がなくなるとサイズが一つ下がるからです。「絶対に胸オペ(※乳房切除術)してやるぞ」と思ったんです。

手術を受けたのは、昨年の冬のことでした。

Bさん
還暦を過ぎていたし、乳房のない自分自身の体に会いたかったんです。傷口が痛いし、それはもう毎日戦ってはいるんですけれど、胸がなくなった自分自身の姿を見た時に、ああ、やっぱり間違っていないと思いました。それからまた少し、生きるのが楽になったという感じです。

トランスする(※ホルモン療法や性別適合手術を受ける)か、しないかについて、私はどうしても自分が生きてきた「女性ジェンダーの自分自身」というのを、本当に捨てられなくて。今はまだ「男性」として生きる段階ではないのかな、と感じています。

「トランスジェンダーと話してみませんか?」の会場となった秋田市のハーモニープラザに飾られたトランスジェンダーフラッグ。デザインは秋田オリジナルです

「賭け」だったカミングアウト

 参加者からは、2人に対して「職場ではどうしていますか?」といった質問が寄せられました。

Aさん
私の場合、ホルモン治療の副作用もあって右耳が聞こえなくなり、視力もいわゆる弱視、ロービジョンと言われる状態になりました。うつ、不安障害、適応障害の診断もあり、それが仕事をする上でのハードルです。地元の市役所の福祉の方に相談して、就労継続支援B型事業所というところがあると聞いて、自分の体調に合わせた形で週1日から3日、4日、作業できるところを紹介してもらいました。

就労継続支援B型事業所
障害によって事業所への就労に困難がある人、雇用契約に基づく就労に困難がある人に就労や生産活動の機会を提供し、日中活動の場として設置される事業所のことです

Aさん
私が通っているのは「ごろりんはうす」というB型事業所です。そこの施設長や職員さんに言われたのは、事業所では自分が初めてのLGBTQの当事者だということでした。通所する前、自分はトランスジェンダーであることを話していたので、(セクシュアリティが理由で)お断りされるかもしれないと思ったんですけれど、OKをもらいました。半分諦めていたんですけれど、職員さんから「よくここに来てくれましたね」と言われました。

自分がカミングアウトすることで、周りがどういう反応をするか、相手の側がどう受け止めるかというのは、一つの賭けでもあります。自分の場合は幸いにも、理解ある人たちがそこにいてくれたから通えたということもあります。

「話せるところなんてなかった」

 「親へのカミングアウト」について尋ねる質問もありました。母親と2人暮らしというAさんは、カミングアウト後に母から投げかけられた言葉について、思いを打ち明けました。

Aさん
42歳まで男性として生きてきたので、カミングアウトした時に母から最初に言われた言葉は「勘当する」でした。母は世代的に(セクシュアルマイノリティを表す)言葉すら知らなくて。「じゃあなんであなたは、今まで何にも言わないで男として生きてきたの?」と聞かれました。

LGBTQ、性的少数者という言葉もなく、学校で教わることもなかった時代を40年生きてきて、情報もない中で「自分は身体的に男性だけれども、認識している性別は女性だ」と、誰に話したらよかったんでしょう? 当時は何もかもが決定的に「男」「女」に分けられていた。それが「社会の常識」で「大人の常識」で、話せるところってそもそもどこ?という話です。母にも「情報がなかったから、言いようがなかった」と答えました。

それから、LGBTQについての記事を見つけてはプリントアウトして母親に渡しました。一度や二度で「そういうことだったんだな」と納得するわけはなく、何日も何日も、何か月も話して、時には本当にもう、口もきかないくらいになって。ホルモン治療を始めるときは、母親に「自分の責任でホルモン治療を始めるから」と伝えました。母は「勝手にしなさい」と。

当時は「周りの人はちゃんと男らしく、女らしくしているのに、なんであんただけこうなの?」と母に言われたけれど、今は、何にも言わなくなりました。受け入れたのかどうかは、わかりませんけれども、自然に解決したような形になりました。

近年、トランスジェンダーに関するさまざまな書籍が刊行されています。このような情報や当事者の声にふれること自体、難しい時代がありました

「トランスジェンダーは伝染する」と言い放った参政党市議

 Aさんは以前、SNSを使っていました。しかし今は、SNSと距離を置いています。あまりにひどい誹謗中傷を日々、目にしてきたからです。

Aさん
トランスジェンダーの戸籍の性別変更に関する裁判の結果が出るたびに、ネット上では当事者たちが「性自認が女であれば男でも堂々と女風呂に入れるのか」などと、まったく事実にもとづかない誹謗中傷を受けてきました。最近では、参政党の政治家(※那覇市議の和田圭子氏)が「トランスジェンダーの性自認が伝染する」などと発言していました。

そういう光景を目の当たりにして、さすがに自分も気持ちが病んでしまいました。政治家や影響力のある人によるデマや誹謗中傷は、一瞬で全国に広がります。

戸籍の性別変更 
トランスジェンダーの人たちが戸籍の性別を変更するには、性同一性障害特例法が定める「5つの要件」をクリアしなければなりませんでした。5つの要件の中には、当事者に手術を強いる内容のものが2つあり、このうちの1つ「生殖不能要件」(精巣・卵巣の切除などによって生殖能力をなくすよう求めるもの)は2023年10月、最高裁が憲法に違反しており無効と判断しました。もう1つの「外観要件」(陰茎の切除などにより性器の外観を変えるよう求めるもの)についても2024年以降、家裁や高裁で複数の違憲判決が出ていることが朝日新聞の報道で明らかになっています。

Aさん
SNS上での誹謗中傷に苦しくなって、電話相談を利用したときに言われたのは「今やっている自分たちにベストなことをそのまま続けて、当事者であるあなたがたは自分をまず大事にケアすることに目を向けてほしい」ということでした。

ネットから離れて、リアルで話して勉強会をした方が、はるかに時間とエネルギーが生きると感じて、私はリアルへと方向転換しました。

「トランスジェンダーと話してみませんか?」の告知ちらし。SNSを中心としたデマや誹謗中傷が苛烈さを増すなか、リアルで会うことも抵抗の形と考えた地元の当事者が、2023年に始めた試みでした

すべての人がセクシュアリティを持っている

 一人一人がもつセクシュアリティ(性のあり方)は本来、とても多様なものです。しかし現実は「男・女」の二択にせばめられる場面が多く、時には本人の意に反した性別で扱われる「ミスジェンダリング」も起こります。

Bさん
医療機関を受診すると、問診票などに「男か女かの丸つけ」があります。私は書かないようにしているのですが、受付の人は私が書き忘れたのだと思って、私の顔を見て勝手に「女」に丸をしてしまうんです。このように「男・女」に分けられる場面は、とてもよくあります。

私がいま勤めている会社は、セクシュアルマイノリティの当事者がほぼ100パーセントという職場なので、カミングアウトする必要がありません。みんなそれぞれに偏見、差別を背負って生きていて、その中で一緒に仕事をしていくという職場なので、特に困り感はありません。だからこそ、職場以外の場所で「男・女」と分けられる場面に遭遇しても「仕方ないなあ」と思えるエネルギーが残っています。

けれどもし、そういう職場ではなくて、社会もきつい、医療機関のハードルも高い――となると「仕方ないな」では終われないと思うんです。

マイノリティだけでなく、すべての人にセクシュアリティ、SOGI(Sexual Orientation and Gender Identity=ソジ、性的指向と性的アイデンティティ)があります。でも、そのことになかなか気づくことができない。私は、すべての人がセクシュアリティという土俵の中で動けたらいいな、と思っています。当事者とか当事者じゃないとか、マイノリティとかマジョリティとか言うんじゃなくて「同じようにセクシュアリティを有する人間たち」というふうに考えていけたら、すごく理想的だと思っています。

「性の教育」があふれる社会を望む

 最後にBさんは、教育への願いを語りました。

Bさん
62年、生きてきて、セクシュアリティに関して困った場面がいくつもありました。どうして私は困ることになったんだろう?と考えたとき、私の直面してきた困りごとは結局、教育がなされていなかったからだよね、というところに行きつくんです。幼少の時から、セクシュアリティの教育や性教育、人の尊厳ということを、学校や教室、教科書の中で全員が教わるという経験をしていたならば、社会は全く違っていたと思います。

自分がいま62歳じゃなくて、例えば18歳だったら――なんてよく考えるんです。この時代の流れなら、若いうちにトランスしていたのかなとか、ああだったかな、こうだったかなと考えます。

もし私がこれから生まれる人間だったら、セクシュアリティやジェンダー教育、性教育があふれている社会であってほしい、と思う。国語も数学もちょっと置いておいて、とにかく私たちが生きていくために、少数派といわれる人たちへの理解とか、そういうものを教育に求めたい。教育は、本当に大事だなと思うんです。

【参考資料】
・朝日新聞デジタル「生半可な気持ちではない」性別変更の外観要件、違憲判断が5件確認(2025年10月1日)https://digital.asahi.com/articles/AST9Z3FK7T9ZUTIL00KM.html
・東京新聞「参政党市議の差別発言がトランスジェンダー当事者に与えた恐怖」(2025年9月17日 )https://www.tokyo-np.co.jp/article/436206

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